Seventy-five O'clock Jump

毎日おもしろいこと書けるほど星のめぐりはよくないんですよ。

偏見で殴り合うと人間が死ぬ

一昨日あたりに越谷オサムの「陽だまりの彼女」を読み終わって、よい溜め息を出してから少し考えたことを久しぶりに書くぞ。

 

僕が今まで読んできた小説や新書が、どれも「読んでよかった、いい本だったな」と思えるのは、薦めてくれた友人や本屋でなんとなく選んでる僕が僕自身の好みをちゃんと見抜いているのか、それとも僕が単にバカ(純粋のほう)なばっかりに、読む本読む本どれについても「なるほどー!なるほどなるほどー!」って興奮してるのか……気になるところではあるのだけど、実のところ、今までで自分に合わなかった本というのが一冊しかない(「ライ麦畑でつかまえて」の和訳が読んでてイライラしてくるタイプの文体で数ページで放り投げた)し、まだまだサンプル数が少ないだけのバカ(未熟のほう)なのかもしれないな。もっと本を読もう、オススメ待ってます。人が死ぬのをメインにコンテンツにする話はそんなに好きじゃないですが、3度オススメされたらたぶん読みます。

 

さて、ちょっと関係ないけど、この前「"読書好き"な人間が全て、年に100冊とか、たくさんの本を読んでいるとは限らない、好きかどうかはそういう量でしか計れないわけじゃない」という気持ちの込められた文章を見たときに「僕らは割と勝手な思い込みで他人に嫌な思いさせてるんだな……」と何だかつらくなった。

 

いま "僕ら" などと、主語が少し大きくなったけれど、この際巻き込むことにしよう。今これを読んでる電車待ちのあなたも、今これを読んでる2階席のみんなもアリーナ席のみんなもそうだよ。

当然と思ってることが思わぬところで思わぬトラブルを生むんだ、そして当然と思ってるから過ちを理解しづらく、訂正もお詫びもしづらいんだ……

 

例えば僕が「男のくせに編み物やってるの気持ち悪い」って言われる可能性は十分にある。冷静に考えたらちゃんちゃらおかしいんだけど「編み物は女性がするもの」という先入観というか時代遅れの常識が、その人の中での"当然"フォルダに、ものを考えるときの確固たる基礎に、信念めいたものになってしまっていたら……僕がどれだけ編み物が楽しいからやってるだの、編み物するのに性別は必要ないだのと反論してみても向こうの理解を得ることは絶望的なのだろうと思う。じゃあこちらから理解していこうにも、理解したところで「この人とは距離を置こう……」くらいしかできないしとにかく寂しい。

 

(時代遅れの常識はいつしか偏見に変わるんだな、自分でも驚いてる)

 

どこかで読んだ文句だけど、「自分と異なる意見の人間と出くわしたとき、円滑にやって行くには相手への共感じゃなくて相手の理解が必要になる、コミュニケーションってのはそのことを指すのでは」っていうのが僕のなかで真実味を増してきた気がする。

 

たしかになんでもかんでも「共感しました〜 ^_^」って言っちゃう人には共感できないんだけど、どうだろう、そんな人を理解できる日は来るだろうか。一向にできる気がしないんだけどどうしてくれる。