Seventy-five O'clock Jump

毎日おもしろいこと書けるほど星のめぐりはよくないんですよ。

あるアーティストの話

 8月10日の夜。日付変更まで数分の頃、地下鉄日比谷線・築地駅の改札。

 

 日が落ちて6時間経っても、依然やたらと蒸すままのプラットフォームで電車を待つのは避けたい……そう思った僕は改札を通らず、すぐそばの空調機の近くでだらしなく涼んでいた。
 5分ほど快適にしていると、改札横の部屋から若い男性駅員が出てきて、駅の伝言板へ歩いていった。僕は何の気なしにぼんやり見ている。
 駅員は伝言板の日付を書き換えにきたのだった。8月10日月曜日が間もなく終了し、8月11日火曜日が間もなく現場入りする。
 駅員は日常的動作で、伝言板に書かれた "10 (月)" の文字を、手に持ってきた黒板消しで一拭きに消し、これまた手に持ってきた白いチョークで、生じたスペースに "11 (火)" と書いた。うむ。問題なし。お仕事ご苦労様です。
 
 しかし駅員は文字を書き終えるなり、ピタリと手を止めて、一拍考えた後に、今しがた書いたばかりの文字を無慈悲に消してしまった。なかなかどうして思い切りがいい。
 
 いやいや話はそこではない。日付は間違いなかったし、消す必要なんてあったか?
そのまま様子を見ていると、駅員は再度 "11 (火)" と書きはじめた。うむ。それでよいのだ。お仕事ご苦労様です。
 
 と思えば、駅員はまたしても文字を消してしまう。そしてまた同じように"11 (火)" と書く。
 
 なるほど……! と、ここで僕は勝手に納得した。これは「間違った字を書いたわけじゃないのに書き直したくなる」現象だ……ってぜんぜん簡潔じゃない。
 えーと、自分で書いた字を見て、ピン……と「これじゃない」感を見出してしまって、字が間違っているわけでもなく、読みづらい字でもないのに書き直してしまうのだ。言ってみればほんのちょっぴりの芸術家なのであるな。恥ずかしながら、僕も同じことをしたことがある。職場の書類で。*1
 
 ―そして駅員は都合5回ほどの書き直しで "納得のいく作品" を作り上げ、元いた部屋に戻っていった。その足取りは軽かった。
 
 自分に似た部分がある人に対して好感をもちやすい僕に、その軽い足取りが伝播したおかげで、銀座駅でなだれ込んでくる酔客たちの乱雑なステップも華麗に回避できたのでした。ありがとう名も知らぬ駅員。顔も覚えちゃいないが、また水曜日の夜に。
 
 
 

*1:繁忙期にやるのはやめましょう。